昭和43年5月17日 夜の御理解 (末永信太郎
様々な難儀が御取次の働きによって助けられて、神も立ち行き、氏子も立ち行きと仰せられるような働きになって来なければならん。そういうおかげを、まあ、頂いて行かなければならんのです。御取次を頂いて、あの、お願いをするというようなことが、その、何か特別に困ったこと、難儀なことと言うと、それを御取次を願ってお願いをするのですけれども、その日常の中に起きて来る様々な難儀というものがございますですね、人間関係。例えば、家の中に一人が癇癪を回しますと、もう、家の中中がガタガタ致します。家中が、もう真っ暗うなってしまいます。
だから、その癇癪を回す人は、まあ、それで良いとしても、その癇癪を回すその人もですね、やはりあの、癇癪を回さなければならんほどに、やっぱしあの、苦しきそれが病的であると言うても、やはり言うなら病気なのですからね。その病気が癒えるおかげを受けなきゃいけんのです。だから周囲の者が、ああ、またあんやつが(失礼?)がはじまったちゅうごたる風で、その、まあ、構わんかまわんといったようなことでは、やはりおかげにならんのですから。それをですね、その、本当にそして、もういつも癇癪を起こさなきゃおられないような人は人で、御取次を願うて自分の気持ちの上におかげ頂かなきゃならんが、その周辺の人達もです、それに迷惑を蒙る人達もやはり難儀なんですよ。ね。
ですから、その迷惑を蒙る人達もやはり、それを御取次を頂いて、もう、本当に繰り返し繰り返し、やはり願うて行かにゃいけん、と。ね。そういうようなことがですね、私はあの、まあ、人間関係だけじゃありませんけれども、まあ、それがあの、普通、いつものことになって来るとですね、それを、また始まったといったようなことで、その、御取次の働きにすがろうとしない。ね。
これでは、やはりあの、神様が喜んで下さらん。神も助かり、氏子も立ち行くということになって来ない。ね。ですから、例えば、んなら、そういう卑近な例えば例を持って申しますとですたいね、癇癪回しておる人も、やはり苦しいから癇癪を回すわけですから。それが、例えば病的と言うてもです、ね、ヒステリーならヒステリーという病気を持っておる人は、それこそもう、普通の人で創造がつかないほどに、やっぱりモヤモヤするらしいんですよ。ね。投げたり、蹴ったりしようごたるとですよ、病気なのですから。
だから、さあ、その周囲におる者が実に迷惑千万ですけれども、なら、周囲の者でもやはり難儀なんですよ。はあ、あれの失礼が始まったといったようなことではなくてです、それを本当にあの、その迷惑を蒙る者その人も難儀なのですから、迷惑を蒙る者がです、ね、まず御取次を頂かにゃいけんと思うんです。
自分、その難儀を蒙るのですから。ね。そして、そこにあの、御取次の働きというものが、そういう日常の中に特別に立たれて、もう、さあ、困った難儀なことだけに止まらずにですね、そのようなことは、この家庭の中にはずいぶんあることだと、こう思うんですね。その一人のために、周囲の者が迷惑するといったような難儀なんですよ、言うならば。ね。
ですから、その中心になる、その人に難儀をかけるその人自身も、それを気付いたら本当に自分の例えばそうした病的なものがです、周囲に迷惑をかけるのでございますから、ね、平生になった時にそのことを本当に赤裸々に御取次を頂いてお願いをして、そこから御取次の働きにすがって行こうという態度が、私は信心だとこう思うです。また、それによって難儀を蒙る者もです、それを、もう、いつものことだから、といったようなことではなしに、そういうことの中から一人一人が御取次を頂く。
五人の、まあ方の、一人の例えばことによって迷惑を蒙るなら、その五人の者がです、御取次を願うて行く、と。ね。そこから、私はその御取次の働きということがですね、言えれることになって来るのじゃなかろうか。最近、合楽で言われております、ね、結局自分一人のために磨くとか、自分のために改まるとか、というような信心からです、これが自他共に助かって行くことのために、ま少し大きく言うなら、教会のために、教会の発展のために自分が信心をする、修行させてもらう、改まらせても頂きますということになれと、こう言うのです。ね。
只今、善導寺の久保山さんから、北海道のあの地震のことについて、本当、真剣に御取次を願われるんですけれども、ね、そういう人達が千にも万にも昇って来る時にです、大きな御取次の働きというものが生まれて来るようになると思うんです。ね。
そういう世間一般の大きな難儀なことについては、それを特別な人だけに任せずに、信心のある者が全てが御取次を頂くといったような気持ちにならせて頂いた。そのために、例えば修行もさせてもらいます、改まりもしますということになって来れば、いよいよ、有り難いことになって来ると思うんです。
今日、宮ノ陣教会で筑水連合会の信徒会があり、皆さん帰って来てから、お話を色々聞かせて頂いたんですけれども、本当にあの、まあ、私はその雰囲気を分かっておりませんからおかげを頂きませんでしたけれど、お話のその端々からですね、本当にあの、はあ、それだなと、こうおかげを頂くことがあるんですよ。
中でも、あの、最後にあちらの親先生ですね、あちらのおばあちゃまです。なら、最後にご挨拶をされたお話の中にも、その話があったと言うて、あの、四神様の大海のような信心をせよという、あの例話を引いてのお話だったそうです。ね。大海には鯨が住もうが、と。ね。鯨が住むようなおかげを願うなら、大海のような信心しなければいけない。ね。
それに、銘々が竹の筒に水が溜まったような信心しか良う出けんから、ボウフラぐらいなものであり、ボウフラがわくようなことになって来るのじゃ、と。という御教えをね、小倉の桂先生はこう言われたという話を聞きまして、はあ、私たちの心は、もういつも頂き、もう、話をしておったけれども、(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ テープが聞こえなくなる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
いつ、神様から御暇が出るやら分からない、というその内容がです、ね、梅川忠兵衛的な言うならものから、ものではない。ね、金光様が一端の信心。ね。これほど信心するというほどしの信心が出けておる上になおかつです、これで済んだとは思わんという、一にも押し、二にも押し、三にも押しという、押し抜いての信心に押しまくって行く、言うならば信心。ね。
そこから、押し捲って、いよいよ本当なものに進んで行くということなんですから。ね。そこから、本当のおかげに向かって進ませて頂くわけになるのですから。ね。いよいよ本当なものを目指しての、一つの信心の姿勢、態度を正して行きたいと思います。どうぞ。